文章を書くということ

 小学生の頃、作文が嫌いだった人は多いんじゃないだろうか。夏休みの読書感想文に始まり、国語の教科書や道徳のビデオの感想文、果ては税について考える作文なんかもあった気がする。

 チョコバット20円(税抜)に着く消費税くらいしか払うことのない小学生に税についての作文を書かせるのは本当になんの意味があったのか、それに関しては今でも意味が分からないままでいる。

 しかも、大人の思う〝正しい子供〟を強制されるんだから堪らない。例えば、ごんぎつねには死ぬ間際に鰻を食いたがっていた母ちゃんのために採った鰻を逃がされたのだ。実の親の最期の願いである、普通に考えれば畜生ごときにくれてやる情けはない。
 それでも、「ごんぎつね可哀想」と書かねばクラスのみんなの前でサイコパスとして吊し上げられるのだから、あんなもんは正しく恐怖政治だ。
 だからこそ、それへの反発なのかインターネットは作文教育への非難で溢れている。「あんなことしてるから日本人はうんぬんかんぬん」
とか「個性のない人間が生み出されてどうのこうの」とか、ボロクソである。
 ルディ自身もそう思っていたし、縛りのないレギュレーションで書かれた小学生達の自由な文章を普通に読んでみたいという気持ちもあった。
 しかし、最近になってtwitterやら何やらを見ていると、こりゃその手の小学生の作文の方がマシなんじゃなかろうかという文章を垂れ流している大人が存外多いと感じる。
 いい年した大人が支離滅裂な感情論を捻れ切った破綻した文章でぶちまけているのだから目も当てられん様である。
 そこで、ふと思うのは、先生のお気に召す当たり障りの無い文章を書けるだけで子供としてはかなりの才能なのではないかということだ。
 論点が捻れず、まともに読める文章を構築していて、他人に気を使う余裕もある。これは真っ当に〝読める文章〟で、それができん大人が多々いる中では十分褒められた仕事だ。
 第一、そこまで書けるガキはもう、たとえ腹の底では「ごんぎつね死ねや」と思っていても隠し通せる技術があるだろう。それを表面だけ見て一口に量産型日本人と言うのは軽率な気がする。
 多分、そういう子供はある程度の歳になって、文章を書くのが好きだったら心配せずとも自由に何かを書き始めるだろう。その時にはきっと、〝読める文章〟ではなく〝読ませる文章〟を見せてくれると思う。
 悪名高い小学校の作文教育だが、よくよく考えると、「大人になってから痛い目見ないように、最低限の〝読める文章〟は書けるようになろうね?」という大切なことを教えてくれたのかもしれない。